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戦鬼と名領主の2つの顔~加藤清正から学ぶ
2014-10-13
豊臣秀吉の重臣であり肥後の名領主としても知られる加藤清正は、1562年に現在の愛知県で生まれました。
父は刀鍛冶で、祖先は藤原鎌足といわれています。
その父は清正が2歳のときに病死しました。
清正の将来を案じる母は、様々な縁を頼って清正の行く道を探します。
その中で出会ったのが豊臣秀吉でした。
12歳から秀吉に仕え、14歳のときには秀吉が義理の親の立場となり元服を果たします。
秀吉から「清正」の名を与えられたのもこのときでした。
「恩を受けし事は軽重を量らず肝に銘じて忘るべからず」という清正の言葉からは、受けた恩義を決して忘れず、秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした、誠実で真摯な性格がうかがわれます。
秀吉もまた清正をわが子のようにかわいがり、天下一流の武芸者の指導を受けさせます。
この英才教育を通じて清正は武道に長けるようになり、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いをはじめ数々の武功を立てて朝鮮出兵の先鋒となるのでした。
猛将、常勝の将として名高い清正ですが、秀吉が死去し徳川家康が天下を取ると、領地である肥後一帯の振興に尽力します。
熊本城の建設、治水灌漑(かんがい)事業による農作物の増産や交易の発展を促進、寺社の建立や復興にも援助を惜しまず、領民たちから厚い信頼を得て今なお愛され続けています。
戦国時代を真っ直ぐに駆け抜けた49年間の人生でした。
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