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義と愛を重んじる文武両道の知将~直江兼続から学ぶ

2014-09-15

文武兼備の知将として上杉家の内政・外政・軍事を指揮した直江兼続は1560年、現在の新潟県魚沼市で生まれました。

この年は桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破った年で、豊臣秀吉の忠臣・石田三成も同じ年の生まれです。

実父は城主・長尾政景に仕える下級武士であり、恵まれた出自ではありませんでした。

政景の子・景勝の小姓となり、景勝が上杉謙信の養子となったことで兼続の人生は一変します。

家督を巡って上杉家に内紛が起きた折にも、兼続は知謀を巡らせ景勝を勝利に導きます。

上杉家の厚い信頼を得て、自身も主家を支えて粉骨砕身の働きをする兼続。

織田信長の死後は盟友でもあった石田三成と水面下で調整し、上杉家は豊臣秀吉と同盟関係を結びます。

秀吉からは「天下の仕置きを行える器用の持ち主」と評され、秀吉の死後、上杉家を従臣させようとした徳川家康の要請には一歩も譲らず拒否の姿勢を貫き通して上杉家を守ろうとしました。

関ヶ原の戦いで徳川家康が覇権を握ると、上杉家はこれまでの会津120万石から米沢30万石に減封されます。

減封されると多数の浪人が出るのが常でしたが、兼続は「人こそが大名の資産である」として家臣の整理は行わず、景勝と自分の私領を減らして補填したといいます。

領民の困窮にも配慮し、治水や地場産業、教育の振興に尽力して米沢藩の基盤を築きました。




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