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士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし
2013-07-30
『三国志』の三国時代から。
齢16の頃より戦場へ赴き、脾肉(ひにく)などためる間もなくがむしゃらに働きながら、かえってそれ故に要職に就いても「学がない」と蔑まれる逆境の中、並居るエリートたちに負けじと一念発起!文武両道を極めた努力の将の物語をご紹介いたしましょう。
若くして呉の孫策、続いて孫権に仕えた呂蒙(りょもう)という武将がいました。
『三国志』最大の見せ場「赤壁の戦い」でも戦功を上げた大将なのでご存知の方も多いかもしれません。
ただこの呂蒙、自分の腕ひとつを頼りに貧村を離れ、武芸のみで出世の階段を駆け上がった人物。
およそ勉学というものに触れる機会がありませんでした。
そんなある日、呂蒙はとうとう主君である孫権から教養のなさを指摘されてしまいます。
呂蒙も自らの功績にそれなりの自負があったのでしょう。
「軍事で忙しくてそれどころではない」とつい言い訳が口をつき(このあたりは第1回「読書百遍意自ずから通ず」で「時間がない」と食い下がった御仁を彷彿とさせます。
ヒマがないというのはいつの世も「できない理由」の王道なのですね)・・・、しかしそこは名君・孫権、「別に博士になれと言っているのではない。それにいくら忙しいといっても私ほどではなかろう」と重ねて諭します。
主の切言に恥じ入った呂蒙は猛勉強を始め、儒学者にも勝ろうかという学問を身に付けるに至ったのでした。
当初は無学の呂蒙を見下していた呉きっての幕僚・魯粛も、共に戦略を語るうちその碩学(せきがく)ぶりに 「呉下の阿蒙にあらず(呉で走り回っていたおバカの蒙ちゃんではないね)」と感嘆します(転じて「呉下の阿蒙」は進歩のない者を指すようになったとか)。
ようやく認められた呂蒙は「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」。
つまり優れた人間は3日も会わなければ成長するもの、先入観を排してよくよく相手を見よ!とやり返したのでした。
もしかしたら呂蒙さん、昨今流行りのドヤ顔をしていたやもしれません(笑)。
呂蒙はのちに蜀・関羽の軍を討ち破るほどの活躍をみせます。関羽といえば『三国志』の中でもとりわけ人気が高く、商売の神として今も崇められる名将。
その仇として時に悪しざまに語られる呂蒙ですが、実戦で積み重ねた経験のみに安住せず、ゼロから未知の分野に挑み進化し続けた彼の生き方には、日々変容を続け次々と新たな課題が生まれる現代のビジネスシーンにおいても、学ぶところがあるのではないでしょうか。
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