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領民を愛した戦国の知将「明智光秀」から学ぶ
2017-05-10
戦国の知将と呼ばれ「本能寺の変」で知られる明智光秀は、1528年に土岐明智家の嫡男として、美濃国(現在の岐阜県可児市)に生まれたといわれています(諸説あり)。
1556年、斎藤道三の息子・義龍の攻撃により明智城を追われて諸国遍歴の旅に出ます。
その後、越前一乗谷の守護大名・朝倉義景に仕官した光秀は、「第二の京」ともいわれた優雅で文化的な一乗谷で教養を深め、朝廷や将軍家につながる人脈を築きました。
そして、しばらくすると転機が訪れます。
13代将軍・足利義輝が暗殺されると、室町幕府と縁が深い土岐家出身の光秀は将軍家復興を目指します。
ここで光秀が見込んだのが織田信長でした。
信長は義輝の弟・義昭を奉じて将軍家を復興、光秀は信長の家臣として頭角を現していくのです。
比叡山焼き討ちのような意にそわない命にも忠実に従い出世を遂げた光秀でしたが、理不尽な領地召し上げなどで信長に対する不信を募らせ、本能寺の変に踏み切って非業の死を遂げたのでした。
「仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略という。
土民百姓はかわゆきことなり」と語っていたという光秀。
反逆者のイメージが強いですが、各所領では民の生活に細やかな配慮をし領民に尊敬されていました。
丹波や近江地域では光秀に由来するお祭りや団体も設立され、再評価する動きもあるようです。
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