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桃李言わざれども下自ずから蹊を成す
2016-04-23
ある国士を救わんとたったひとりで皇帝・武帝に立ち向かい、それ故に宮刑に処せられた司馬遷の『史記』から、彼の魂の叫びともいうべきリーダー論をご紹介いたしましょう。
前漢の頃(前2世紀)、李広という名将がいました。
部下に慕われただけでなく、西方の宿敵・匈奴からは「飛将軍」と恐れられ、のちに三国志で知られる呂布ら優れた武将たちも、彼にちなんで飛将軍と称えられたほどです。
その李広ですが悲しいかな、時を得ることかなわず、最後の出陣では武帝が目を掛けた若将軍の配下とされたばかりか、持ち場を急に変更され道に迷うなど不運も重なり、年少の将軍の叱責を受けることに。
誇り高き李広は「これも天命」と自刎(じふん/自分で自分の首をはねて死ぬこと)しますが、兵も民衆も皆その人柄をしのんで涙したそうです。
司馬遷はこの逸話から「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す」、つまり桃やスモモの木の下には美しい花やおいしい実にひかれて自然と道ができるように、徳ある者の下には特別なことをしなくとも人が集まるもので、これぞあるべきリーダーの姿と称賛したのでした。
ところで上述のとおり、司馬遷はある国士のため腐刑に甘んじた過去を持つのですが、その人こそ李広の孫・李陵でした。
彼も豪傑の血を色濃く継いだからでしょうか、5千の歩兵で3万の匈奴軍と切り結んで善戦しますが、兵力差はいかんともし難くやむなく投降してしまいます。
宮廷に「李陵降ろし」の嵐吹き荒れる中、独りその勇戦を評価したことをとがめられ、司馬遷は武帝から屈辱的な刑罰を下されることになったのです。
「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す」は芳しさすら感じる成語ですが、その裏には司馬遷の燃え盛る怒りと理想が込められていたのですね。
後日譚になりますが、唐(8世紀)の詩人・李白も、李広の子孫とする説があります。
桃李は千年後の李白、さらに千年後の我々にまで続く蹊を、故事として、漢詩として、遺してくれたのかもしれません。
人の上に立ち、未来への道をどのように残し得るか、古典が自省を促していると捉えるのは少々うがち過ぎでしょうか。
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